ガイナックスの破産手続きが完了したというニュースを目にしました。
その一文を読んだとき、驚きよりも先に、胸の奥に静かな引っかかりのようなものが残りました。
私はいわゆるエヴァ、ナディア世代です。
『ふしぎの海のナディア』に胸を躍らせ、思春期の只中で『新世紀エヴァンゲリオン』に出会い、「これは何を見せられているんだ」と、良い意味で混乱した世代でもあります。
ガイナックスという名前は、単なるアニメ制作会社ではありませんでした。
少なくとも私にとっては、世界の見え方が少し変わるきっかけをくれた場所でした。
そのガイナックスが、静かに歴史を閉じた。
時代の流れと言ってしまえばそれまでですが、同時に、こんな問いが浮かびました。
――組織とは、何によって生まれ、何によって終わるのだろう。
この問いは、福祉の現場で組織運営に関わる立場になった今の自分にとって、決して他人事ではありませんでした。
理論で全体を設計する人 ― 岡田斗司夫型
ガイナックス創設期において、
岡田斗司夫は組織の設計者でした。
彼は最前線で絵を描く人ではありません。
代わりに、
なぜこの企画は成立するのか
なぜ人はこれに熱狂するのか
どうすれば組織は回り続けるのか
そうした問いを、言語と理論で整理する役割を担っていました。
福祉で言えば
管理者、サービス管理責任者、法人運営や事務に関わる立場
に近い存在です。
現場からは、「冷たい」「机上の空論だ」と言われやすい役割でもあります。
けれど、現実にはこの視点がなければ、組織は長く持ちません。
感情を作品にぶつける人 ― 庵野秀明型
一方で、庵野秀明は現場そのもののような存在です。
自分の内面、不安、怒り、孤独。
整理しきれない感情を、そのまま作品に叩きつける。
『エヴァンゲリオン』は、論理的に「分かりやすく作られた作品」ではありません。
むしろ、整理できなかった感情の痕跡だと思います。
福祉で言えば
利用者に寄り添いつづける支援員
感情を受け止め続ける現場職
理屈より「今、目の前の人」を優先する人
こうしたタイプに重なります。
この人たちがいなければ、福祉は制度だけが残り、人の営みとしての支援は失われてしまいます。
なぜ両者は同じ場所に立てなかったのか
岡田斗司夫と庵野秀明は、仲違いしたから別れたわけでは無いと思います。
役割が、あまりにも違いすぎたのです。
理論で全体を守ろうとする人
感情で現場を守ろうとする人
この二つの視点は、本来は補い合う関係であるはずでした。
しかし、組織が大きくなるにつれ、同じ場所に立ち続けることが難しくなっていった。
この構図は、福祉の現場でも珍しくありません。
福祉の組織で起きがちなすれ違い
福祉の現場では、よくこんな声を耳にします。
「現場の大変さを分かっていない」
「感情論では組織は回らない」
どちらも、間違いではありません。
問題は、どちらか一方だけが正しいと思い始めたときです。
理論派が現場を切り捨てる
現場派が管理を拒絶する
この瞬間、組織は少しずつ分断されていきます。
ガイナックスが辿った道は、社会福祉法人や事業所組織が内部から疲弊していく過程と、驚くほど似ているように感じます。
本当に必要なのは「翻訳者」
理想は、岡田斗司夫になることでも、庵野秀明になることでもありません。
両者の言葉を翻訳できる存在です。
現場の苦しさを、制度の言葉に変える
理論の必要性を、現場の言葉で伝える
福祉の現場では、この役割を担える人が圧倒的に足りていないのではないでしょうか。
だからこそ、管理職は孤立し現場は疲弊し・・・
「分かり合えない組織」が生まれてしまうのだと思います。
おわりに
岡田斗司夫がいなければ、ガイナックスは生まれませんでした。
庵野秀明がいなければ、エヴァンゲリオンは生まれませんでした。
そして、どちらか一方だけでは、ガイナックスは続かなかった。
福祉の組織も同じです。
理論で守る人
感情で支える人
どちらも欠けてはいけない。
もし今、「現場ばかりで苦しい」と感じている人がいるなら。
あるいは、「管理の立場で孤独だ」と感じている人がいるなら。
それは、あなたが間違っているからではありません。
役割が違うだけなのだと思います。
ガイナックスの終わりをきっかけに、私は改めて、「組織を続けるということ」の難しさと重さを考えさせられました。
そして同時に、福祉の現場では、まだこの物語を終わらせずに済む余地があるとも感じています。
私自身が管理者であり、実践者と翻訳者を併せ持つ表現者として事業所(現場)に居続ける決意で結びといたします。


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