師走の慌ただしさが少し落ち着いた夜
何気なく昔観た映画を再生しました。
ティム・バートン監督の『Big Fish』です。
若い頃は
「大げさな嘘ばかり話す父親の映画」
くらいの印象しかありませんでした。
ところが、
現役で知的障害者支援の現場に立つ今、
この映画はまったく違う顔をして目に入ってきました。
「嘘っぽい話」をどう受け取るか

『Big Fish』の主人公エドワードは、
人生を事実ではなく“物語”として語り続ける人物です。
巨人が出てきたり、
魔女に未来を見せられたり、
現実とは思えない話ばかり。
息子はその語りを
「嘘だ」「誇張だ」と受け取れず、
父との距離を広げていきます。
この構図・・・
知的障害者支援で思い当たる節、ありますよね・・・
知的障害のある人の語りは、しばしば整理されていない
知的障害のある利用者さんの話は、
- 時系列が前後する
- 事実と空想が混ざる
- 自分がヒーローになる
- 話がどんどん膨らむ
ということが珍しくありません。
支援員としてはつい、
「事実関係を正したくなる」
「現実を教えたくなる」
場面でもあります。
でも、その語りを単なる間違いや虚言として扱った瞬間
その利用者の世界は否定されて閉じてしまう。
映画を観ながら、そんな日常の支援場面が頭に浮かびました。
行動や言葉は「物語の断片」かもしれない
知的障害者支援では
- 突然の怒り
- 理由の分からない拒否
- 一貫しない訴え
に直面することが多々あります。
記録上は
「問題行動」
「不適切発言」
と整理されます。
しかし実際には、
- 不安
- あこがれ
- 自尊心
- 守りたい世界
しかし、言葉にすることが困難で
物語のような形で表現されている
だけなのかもしれません。
Big Fishの父親が
事実ではなく感情を語っていたように。
支援記録に残らない「その人らしさ」
福祉の現場では
正確な記録が求められます。
それ自体はとても大切です。
ただ・・・
- その人が何を誇りに思っているのか
- どんな世界観で生きているのか
- 何を失うことが一番怖いのか
こうした部分は、
ほとんど記録に残りません。
でも、支援の質を左右するのは
むしろその「書けない部分」だったりします。
「理解」よりも「否定しない」支援
映画のラストで、息子は父の人生を完全に理解したわけではありません。
ただ、父の物語をそのまま受け取り、語ってあげた。
それだけでした。
知的障害者支援も同じだと思います。
- 全部理解しなくていい
- 理屈が通らなくてもいい
- 整理できなくてもいい
それでも、否定せずに関わり続けること。
それが、その人の尊厳を守る支援につながる場面は確かに存在します。
支援者は「人生の語り部」になれるか
知的障害のある人は、自分の人生を言葉でうまく説明できないことがあります。
だからこそ支援者は、
- 正す人
- 教える人
- 管理する人
になる前に、
その人の人生を奪わない存在
でありたい。
年末に観た一本の懐かしい映画が、そんな原点を
静かに思い出させてくれました。
現役施設長として
現場では今日も、説明できない言葉や行動に向き合っています。
アニメキャラに思い焦がれて、現実世界でデートする約束を嬉しそうに話す利用者
少ない工賃ながら、家族全員に高級なお寿司を御馳走したと豪語する利用者
「それ、うそでしょ?」
は、言いっこなしです。
事実だけで人を見ないこと。
物語を奪わないこと。
その積み重ねが、支援の仕事に欠かす事の出来ない想いなのだと、改めて感じた年の瀬でした。



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